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朝妻船(PART 1)



 


朝妻船(PART 1)


 



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デンマンさん。。。 いつから日本舞踊に興味を持ったのでござ~ますかァ~?



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ん。。。? 卑弥子さんは僕が日本舞踊に興味を持ったと思うのですか?


だってぇ~、日本舞踊のクリップを貼り出しているではござ~ませんかァ~!


僕は日本舞踊には、ほとんど興味がないのですよ。。。


それなのに、日本舞踊のクリップを貼り出しているというのは、どのようなわけでござ~ますかァ?


実は、次の絵を見たのが日本舞踊のクリップを持ち出してきたきっかけなのですよ。。。


 



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あらっ。。。 これは浮世絵ですわね。。。 若い女性が船に乗って さめざめと泣いているように見えますわァ~。。。 これが上のクリップの日本舞踊と関係あるのでござ~ますか?



実は、この浮世絵は「朝妻舟図 (あさずまぶねず)」というもので、琵琶湖畔に浮かべた舟(浅妻船)で客を待つ、物悲しげな白拍子の佇まいを描いたものなのですよ。。。 上の絵から日本舞踊は生まれたのです。。。


マジで。。。?


上の浮世絵は、英一蝶という絵師が描いたものなのですよ。。。



英 一蝶(はなぶさ いっちょう)


 



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承応元年(1652年) - 享保9年1月13日(1724年2月7日)


 


江戸時代中期(元禄期)の画家、芸人。
本姓は藤原、多賀氏、諱を安雄(やすかつ?)。


後に信香(のぶか)。字は君受(くんじゅ)。幼名は猪三郎(いさぶろう)、次右衛門(じえもん)、助之進(すけのしん。もしくは、助之丞[すけのじょう])。
剃髪後に多賀朝湖(たが ちょうこ)と名乗るようになった。
俳号は暁雲(ぎょううん)、狂雲堂(きょううんどう)、夕寥(せきりょう)。


名を英一蝶、画号を北窓翁(ほくそうおう)に改めたのは晩年になってからであるが、本項では「一蝶」で統一する。
なお、画号は他に翠蓑翁(すいさおう)、隣樵庵(りんしょうあん)、牛麻呂、一峰、旧草堂、狩林斎、六巣閑雲などがある。


 


島流しに至る経緯


当時幕府は、元禄文化の過剰な華やかさ、つまりは風紀の乱れ、特に武士や大名らの綱紀を粛正しようと試みていた感がある。
元禄6年(1693年)には「大名および旗本が吉原遊郭に出入りし、遊ぶこと」を禁じている。


島流しに至る経緯については以下のような、いくつか説がある。


1. 為政者の風刺時の権力者である柳沢吉保が出世する過程で実の娘を将軍綱吉の側室に差し出した、という当時からあったゴシップ的な噂を、一蝶が風刺作品にしたから。
代表作『朝妻舟図』が関係している(吉保の妻を遊女に、綱吉を客に見立てたとするもの)とも言われる。


2. 釣りの罪町人の分際で釣りを行った(武士は修練目的として黙認されていた)ことが、綱吉政権が発令した生類憐れみの令違反とされた。
同年、追加条例として“釣り具の販売禁止令”すらも出ている。


3. 禁句の罪“馬がもの言う”という歌を広めたから。
これは今で言うところの、放送禁止歌謡指定も同然である。


4. そそのかしの罪ある時、いつものように芸で座敷を盛り上げていた際、とある殿様をそそのかし、勢いで花魁を身請け(つまり、武家らしからぬ行状と、巨額浪費)させてしまった。
ところがその殿様は将軍・綱吉の母である桂昌院や柳沢吉保の派閥と縁のある六角越前守であったため、その方面の怒りを買った、という話も伝わる
(表高家旗本の六角家の当時の当主で「遊郭吉原での狼藉により、元禄10年[1697年]頃に閉門蟄居命令」が確認される六角広治(越前守)か。
広治の母は桂昌院実家の本庄氏出身。またこの六角家は、著名な近江国守護大名の六角氏とは別の家系。
公家の烏丸家系。またこれ以外にも掛川藩主井伊直武をそそのかした(遊びで盛り上げた)話なども伝わり、
島流しの際は同時に幇間であった村田半兵衛(村田民部)らも流されている)。


5. その他村田民部との共作『当世百人一首』で将軍綱吉の側室である於伝の方(瑞春院)の舟遊び風景を描いたこと、大名・金持ちの間で当時、石灯籠を集めることが流行った際、それを買い集めて儲けようとした、などの話がある。
当時からお騒がせの有名人だったことが窺える。
大田南畝が伝えるには、当時禁教とされていた不受不施派に与したため、とされている。
正式な罪状として採用されたのは、“釣り罪”であるらしい。




出典: 「英一蝶」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



あらっ。。。 英 一蝶(はなぶさ いっちょう)は上の絵を描いたために「島流し」にあったのでござ~ますか?



そうなのですよ。。。 正式な罪状として採用されたのは、“釣り罪”であるらしいのだけれど、世間では英一蝶の代表作『朝妻舟図』を描いたために、「島流し」にあったというのが もっぱらの噂となった。。。


。。。で、「朝妻舟」というのは、何か謂(いわ)れがあるのですかァ~?


次のような船を「朝妻舟」というのです。。。



浅妻船


 



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朝妻船(あさづまぶね)は、滋賀県琵琶湖畔 朝妻(米原市朝妻筑摩)と大津と間での航行された渡船。
東山道の一部。


朝妻は『和名抄』に「安佐都末」とある。
朝妻川の入江に位置する。船舶がしきりに出入りしたが、慶長ころから航路の便利から米原に繁栄をうばわれ、おとろえた。
寿永の乱の平家の都落ちにより女房たちが浮かれ女として身をやつしたものが、朝妻にもその名残をとどめ、客をもとめて入江に船をながした。


その情景を英一蝶がえがいた絵が有名である。


 



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烏帽子、水干をつけた白拍子ふうの遊女が鼓を前に置き、船に乗っている絵は、五代将軍徳川綱吉と柳沢吉保の妻との情事を諷したものであるという。
一説に英が島流しされたのはこの作品が原因であるという。


英が絵に讃した小唄は、「仇しあだ浪、よせてはかへる浪、朝妻船のあさましや、ああまたの日は誰に契りをかはして色を、枕恥かし、いつはりがちなるわがとこの山、よしそれとても世の中」。
「わがとこの山」は、犬上郡鳥籠山であるのを、床の山にかけたものである。


長唄などもつくられた。




出典: 「浅妻船」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



長唄だけじゃなく、日本舞踊にも、講談にも、歌舞伎でも演じられるようになった。。。



でも。。。、でも。。。、次の絵を見ただけで、当時のミーちゃん、ハーちゃんに五代将軍徳川綱吉と柳沢吉保の妻との情事を諷したものであるというのが判るものなのでござ~ますかァ~?


 



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おそらく、現代人が見れば、誰もが卑弥子さんのような感想を持つと思うのですよ。。。 上の絵には船の中で女性が悲しげにしているだけが描かれているわけだから。。。 将軍綱吉が生きていた時代の事を知らない限り、上の絵が風刺画だとは判らない! でもねぇ~、当時のミーちゃん、ハーちゃんは町の噂で将軍綱吉の女癖の悪いことを知っていた。。。



江戸時代の御成り


 



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江戸時代には、将軍(時には大御所)が、臣下の邸宅を訪問することを特に御成と表現した。


御成りは、世間に主従関係を知らしめるための機会であり、それを受ける各藩は名誉と受け取っていた。


元和9年、江戸時代に最初の大規模な御成りが行われ、その際、尾張藩が徳川秀忠を迎えた際のもてなしかた(茶の湯、観能など)は「元和御成記」として記録され、以後、江戸時代を通じて御成が様式化した。


簡素化された時代もあるが、御成りにあたっては、大規模な江戸屋敷の大改装(庭園や能舞台の造成、改装)や諸道具の新調や随伴者の土産品の調達まで多額の労力と費用が費やされた。


元禄15年初頭、徳川綱吉から加賀藩(当時の藩主は前田綱紀)に対して御成りの意向が下知されると、加賀藩はさっそく本国から職人を呼び寄せて準備を開始、同年4月の御成りまでにかかった総費用は約36万両(仮に1両30万円換算だと約1,080億円)に達し、元禄時代ならではの華やかさが伝えられている。




出典: 「御成」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 




徳川綱吉は、どうして「御成」が好きだったのですか?



綱吉には悪い癖があったのです。。。


どのような。。。?


ジュンコさんは綱吉がワンちゃんを大切にしていたのを知っているでしょう?


ええ。。。 確か徳川綱吉は「生類憐みの令」を出して ワンちゃんをはじめ生き物を大切にしなさいと庶民にお触れを出したのですよねぇ~。。。


そうです。。。 この綱吉は、もちろん良い事もしたのだけれど、人の迷惑になる事を考えるだけの分別にかけていた。


たとえば、どのような迷惑をかけたのですか?


綱吉は色っぽい女性に目がなかった。


 



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あらっ。。。 色っぽい女性がいると聞くと 居ても立ってもいられない性分だったのですか?



そうなのですよ。。。 だから、ジュンコさんが色っぽい女だという噂が立てば、ジュンコさんの家に「御成」するような将軍だったのです。。。


実際に、そのようにして色っぽい女性の家に「御成」したことがあるのですか?


あるのですよ。。。 綱吉は臣下だった牧野成貞の妻・阿久里の噂を聞きつけて、牧野邸に「御成」したのです。。。


それで牧野成貞さんは、名誉なことだと思って作法どおりに七五三の膳を出してもてなしたわけですか?


そうです。。。 でも、綱吉は食べない。。。 もちろん、目的はご馳走を食べるためではなかった。。。 


それで、本膳の七五三の膳は、その後 誰もが手をつけないようになったのですか?


そうだったのかもしれません。。。 でも、これは僕の個人的な解釈です。。。


本当はどうだったのですか?


あのねぇ~、本膳料理というのは、多くが「見る」料理だったのですよ。。。 つまり、神饌(しんせん)や仏供と同様に飯・餅などを「高盛」と呼ばれる飾り盛で出した。。。


 



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だから、実際に食べる事ができる料理は決して多くは無かった。。。 本膳料理が形骸化すると実際に食べる部分が少なくなったことから、食べるための膳として引替膳が編み出されるようになった。。。



つまり、ご馳走よりも、色っぽい女性がお目当てで、徳川綱吉が七五三の膳に手をつけなかったのは、食べないご馳走の“仕来(しきた)り”とは直接関係がないのですわねぇ~?


直接関係がありません。。。


ところで、牧野成貞の奥さんの阿久里さんは、どうなったのですか?


興味がありますか?


教えてくださいなァ。。。


綱吉は阿久里さんに手を出しただけでなく、驚いたことに 阿久里さんの娘の安子さんも無理やり自分のものにしてしまった。。。


あらっ。。。 マジで。。。?


安子さんには婿の成時さんがいて、彼は憤激のあまり割腹自殺をしてしまったのです。。。


あらっ。。。 最悪の事態になってしまったのですわねぇ~。。。


そうなのですよ。。。 さらに綱吉は、腹心の柳沢吉保の側室・染子さんも 「御成」を口実に わがものにしてしまった。。。


あらっ。。。 徳川綱吉はずいぶんと女癖が悪い将軍だったのですわねぇ~。。。


そうなのですよ。。。 「御成」を口実にして 色っぽい女をご馳走代わりに手を出したのですよ。。。 つまり、徳川綱吉はご馳走を食べないで、色っぽい女性をいただいたわけです。。。




『食べないご馳走』より
(2019年11月30日)



つまり、江戸時代のミーハーは、徳川綱吉が腹心の柳沢吉保の側室・染子さんも 「御成」を口実に わがものにしてしまったことを知っていたのですわねぇ~。。。



そうです。。。


でも。。。、でも。。。、将軍綱吉は牧野成貞の奥さんの阿久里さんにも手を出したのでござ~ますでしょう!?


そうです。。。


だったら、牧野成貞の奥さんの阿久里さんなのか? それとも柳沢吉保の側室・染子さんなのか? どちらなのか? 当時のミーハーには、区別ができないではござ~ませんかァ~!


それができるのですよ!


どのように。。。?


もう一度絵をじっくりと見てください。。。


 



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どこにヒントが隠されているのですか?



よ~く注意して見てください。。。 白拍子の頭上にあるのは何ですか?


柳でしょうか?


そうです!  です! 沢吉保の側室・染子さんです!



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 (すぐ下のページへ続く)


by denman1720 | 2019-12-04 03:56 | 歴史四方山話 | Comments(0)

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