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鬼島(PART 1)


 


鬼島(PART 1)


 



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ケイトー。。。、なんだか 怖いクリップを貼り付けたのねぇ~。。。



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シルヴィーは怖いものが好きでしょう?


東洋の怖いモノって気味が悪いのよねぇ~。。。 どちらかといえば、西洋の怖いモノの方が好きだわァ~。。。


実は、今日取り上げるのは西洋の怖いモノなんですよ。。。


でも、どういうわけで 鬼島 なのォ~?


あのねぇ~、バンクーバー市立図書館で借りていた本を読んでいたら次の箇所に出くわしたのですよ。。。




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タルガ・べコウル (北アメリカ)


 


この二国はキビラの北にある大国。


氷海や夜国に近い大寒国である。 (略)


 


この辺り(北アメリカ)の島国として「イスパニョル(ハイチ島)」、「クウバ(キューバ)」、「ガマガ(ジャマイカ)」という島がある。


これらは熱国である。 (略)


 


また、「ハルモタ(バミューダ)」という無人島がある。


この島には魑魅魍魎(ちみもうりょう)の類が多く棲み、往来の船舶を驚かすことがある。


 


風もないのに大波を起こしたり、魑魅が船にのりこんで、一瞬に数万里を飛ぶがごとく移動させる。


島はここら辺の北東方向にあり、「鬼島」という。


 



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『増補華夷通商考』より


「鬼島」での現象は今日では「魔の海域バミューダトライアングル」と呼ばれています。


フロリダ半島の先端と、プエルトリコ、バミューダ諸島を結んだ三角形の海域のことで、昔から船や飛行機が消えてしまうという伝説で有名です。


色んな原因が考えられていますが、これという決定的な謎解きは未だになされていません。


 


それにしても江戸時代の人々がバミューダトライアングルを知っていたことが驚きです。


 



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(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




239ページ 『鎖国の地球儀』
江戸の<世界>ものしり帖
著者: 松尾龍之介
2017年6月15日 初版発行
発行所: 弦書房



つまり、「鬼島」というのは、現在のバミューダ諸島のことを指しているのねぇ~。。。



たぶん、そうでしょう。。。


確かに、江戸時代の人々がバミューダトライアングルを知っていたことが驚きよねぇ~。。。 で、誰が『増補華夷通商考』を書いたのォ~?


西川如見という人が書いたのですよ。。。



西川如見(じょけん)


 


慶安元年(1648年) - 享保9年8月10日(1724年9月26日)


 


江戸時代中期の天文学者。


父は同じく天文学者の西川忠益。母は石山宗林の娘。


 


肥前長崎の商家に生まれ育った。名は、忠英、通称は次郎右衛門。


別名は恕軒、恕見。居号は求林斎、金梅庵、淵梅軒。


 


1672年(寛文12年)25歳の時 和漢を儒学者南部草寿(1680年没)に、天文・暦算・測量学を林吉右衛門門下の小林義信(謙貞、樋口権右衛門)に学んだ。


1695年(元禄8年)48歳の時に日本で初めての世界地誌『華夷通商考』を著した。


 


元禄10年(1697年)に隠居して著述に専念。


1708年(宝永5年) 61歳の時に『増補華夷通商考』を刊行した。


それによって南北アメリカが日本で初めて紹介された。


 



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天文・地理学上の著述では有名中国天文学説を主とし、ヨーロッパ天学説の特徴を十分承知しながら享保3年(1718年)に江戸へ赴き、翌享保4年(1719年)に8代将軍徳川吉宗から天文に関する下問を受けた後暫く江戸に滞在し、長崎に帰った。


享保9年(1724年)に死去した。享年77。




出典: 「西川如見」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



『増補華夷通商考』は1708年に出版されたのねぇ~。。。



この本によって南北アメリカが日本で初めて紹介されたわけですよ。。。


ヨーロッパのことも書いてあるわけぇ~?


書いてあります。。。 イタリア人の女性のことが次のように書いてあるのですよ。。。



イタリヤ (イタリア)


 


オランダの南にあり、属国がたくさんある。


その筆頭がローマである。 (略)


 


二千年前に国王が大きな大きな大殿をつくり、その大きさや建築の巧妙さにおいては古今無双で今日なお存在している。


 (中略)


ところでイタリヤの女性は残らず乳房が長い。


 



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背中に子供を背負ったままで乳を飲ませることができる。


 


以前、オランダ船に乗って長崎にもイタリヤ人女性がやって来たことがあるとされている。


 (219-220ページ)



あらっ。。。 イタリヤの女性は残らず乳房が長い、見てきたような嘘を書いてるじゃない!。。。 背中に子供を背負ったままで乳を飲ませることなど できるわけないじゃない!



やっぱり、シルヴィーも そう思う?


当たり前でしょう! 常識で考えても、そんな事はありえないと思うわァ~。。。


でも、上の絵のマリアさんならば、イエスを背中に負ぶって乳を飲ませることができると思わない?


上の絵は、ケイトーが手を加えてお乳を伸ばしたのだわァ~。。。


あれっ。。。 シルヴィーは僕が絵に手を加えたのを見てたのォ~?


見てたわよ! もともとの絵は次のようなものなのよ!


 



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こういう事をして、ネット市民を騙してはいけないのよ!



シルヴィーが見ていたとは全く気づきませんでした。。。 (苦笑)


南北アメリカ大陸などの知識を当時の江戸庶民に広く普及させたのは良い事かもしれないけれど、イタリア女性が皆お乳が長いなどという ありもしないことを書くのは どうかと思うわァ~。。。


でもねぇ~、鎖国をしていた日本の当時の庶民に南北アメリカ大陸やバミューダトライアングルを紹介したことはすごいことだと思うのですよ。。。 だから、上の本の著者も次のように書いている!



土佐藩が生んだ明治の教育学者・細川潤二郎は「世間では西洋の学術をわが国に伝えたのは新井白石とされているが、西川如見が西洋の学術を伝えたのはそれ以前であって、開闢(かいびゃく)の祖としての功績は誰がみても如見にあるのは明白である」と主張しています。
これは正論です。


しかし彼がいくらそのように如見を評価したところで、世間は相変わらず新井白石だけを持ち上げ、如見は見る影もないのが現実です。 (略)


異国人の発音を正確に聞き取り、未知に属する事柄をよく理解し、それらを精密適格に伝えることができたのは、白石ではなく今村市兵衛という通詞ではないですか。
彼を抜きにしてシドッチ(と新井白石)との会話は成り立たないし、『稀有な才能』として評価されるべきは白石ではなく、むしろ市兵衛の方ではないですか、と異議を唱えたくなります。


このようにオランダ通詞を封印する姿勢は江戸の蘭学者たち、ことに杉田玄白と大槻玄沢の子弟によってつくられたものです。


かつて玄白は参府で江戸に来ていた吉雄幸左衛門に『解体新書』(1774)の序を頼みました。


 



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その際、原稿を持参し校閲を申し込んでいます。
吉雄はもとより訂正をほどこしたものと思われます。
この時点では吉雄の前にまったく頭が上がらなかったといえるでしょう。


それが寛政の改革(1787)で吉雄をはじめとした主だったオランダ通詞が失脚するのを契機に、当然のことながら玄白と玄沢のオランダ通詞に対する姿勢に変化が生まれてきます。 (略)


玄白の『蘭学事始』(1815)にはオランダ通詞のことを「あちら(長崎)の文字を知らない通詞たちが、カタカナで書き留めたものを暗記して通弁し、入り組んだ多くの御用をなんとか弁じつとめただけで年月が流れた。そんな具合だから横文字を習得したものなど一人もいない」と断じています。


よくもまあ、こんな出まかせがいえたものだと呆れますが、要するに「オランダ通詞の会話なんかたかが知れている。 翻訳こそが本当の意味で蘭学であって、それを果たした自分たちこそが蘭学の創始者なのだ」といいたかったのです。
『蘭学事始』は一貫してこの精神で貫かれています。 (略)


 



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蘭学のみならず天文地理の分野においても、長崎の西川如見を意図的に黙殺し、新井白石や前野良沢のような士分に開祖を求めています。


身分制度はとうの昔に失われてしまったのに、今日なお研究者たちが白石をひたすら賛美して、如見を排除しようとする姿勢は不思議でなりません。


「小人国」や「女人国」がそんなに荒唐無稽な記述でしょうか。
小人国は北極圏に背が低い民族がいることを暗示していたわけですし、アマゾネスは現在のサブカルチャーにまで深く根を下ろしています。
それらをいち早く日本に紹介したというのは、やはり西川如見の手柄というべきでしょう。


(277-280ページ)



つまり、鎖国をしていた日本の当時の庶民に南北アメリカ大陸やバミューダトライアングルを紹介した西川如見の功績をもっと認めるべきだということが言いたかったのねぇ~。。。



いや。。。 そればかりじゃないのですよ。。。 現在にも、たとえば、学歴などがないために、重要な発見をしたのにもかかわらず学界から黙殺されて、世間に埋もれていた人がいるのですよ。。。


たとえば。。。?


納豆などの行商をしながら独学で考古研究を行い、岩宿遺跡の関東ローム層から黒曜石で作られた打製石器を発見し、それまで否定されてきた日本の旧石器時代の存在を証明した相沢忠洋さんは、長い間学界から無視されていたのですよ。。。



相沢忠洋


 



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相沢 忠洋(あいざわ ただひろ、相澤 忠洋、1926年(大正15年)6月21日 - 1989年(平成元年)5月22日)は、日本の考古学者。
納豆などの行商をしながら独学で考古研究を行っていたが、1949年(昭和24年)に群馬県新田郡笠懸村(現・みどり市)(岩宿遺跡)の関東ローム層から黒曜石で作られた打製石器を発見し、
それまで否定されてきた日本の旧石器時代の存在を証明した。


1949年(昭和24年)以前、日本における人類の歴史は縄文時代からとされており、旧石器時代の存在は否定されていた。
特に火山灰が堆積した関東ローム層の年代は激しい噴火のため人間が生活できる自然環境ではなかったと考えられており直良信夫などによる旧石器の発見が報告されることはあったが、
激しい批判にさらされていた。


そうした時代背景の中で、1946年(昭和21年)、相沢は、岩宿の切り通し関東ローム層露頭断面から、石器(細石器)に酷似した石片を発見した。
ただし旧石器と断定するまでには至らず、確実な旧石器を採取するため、相沢は岩宿での発掘を独自に続けていった。


1949年(昭和24年)夏、相沢は岩宿の関東ローム層中から明らかに人工品と認められる槍先形石器(黒曜石製の尖頭器)を発見した。
相沢は岩宿の切り通しの崖面から採取した石器や石片を携行して考古学者を訪ねては赤土からた石器が出土する事実を説明して回ったが、まともに取り合う学者はいなかった。


この説明のために相沢は桐生から東京までの長距離を自転車で行き来した。
同年初秋、この石器を相沢から見せられた明治大学院生芹沢長介(当時)は、同大学助教授杉原荘介(当時)に連絡し、黒曜石製の両面調整尖頭器や小形石刃などの石器を見せた。
赤土の中から出土するという重大性に気づいて、同年9月11日 - 13日、岩宿の現地で、杉原、芹沢、岡本勇、相沢ら6人で小発掘(本調査に先立つ予備調査)が行われた。
そして、11日、降りしきる雨の中をも厭わず掘り続け、杉原の手により、卵形の旧石器が発掘された。


後に刃部磨製石斧と名付けられる。
9月20日、東京に帰った杉原はこの発掘の結果を主要新聞に発表した。


その後、同年10月2日から10日あまりにわたって、杉原を隊長とする明治大学を中心とした発掘調査隊が岩宿遺跡の本格的な発掘を実施し、その結果、旧石器の存在が確認され、
縄文時代に先行し土器や石鏃を伴わない石器文化の存在が確実な事実となり、旧石器時代の存在が証明されることとなった。
また、日本列島の人類史の始まりを一挙に万をもって数えられる更新世に遡らせた。


しかし、当時この重大な発見について、学界や報道では相沢の存在はほとんど無視された。


明治大学編纂の発掘報告書でも、相沢の功績はいっさい無視され、単なる調査の斡旋者として扱い、代わりに旧石器時代の発見は、すべて発掘調査を主導した杉原荘介の功績として発表した。


さらには、相沢に対して学界の一部や地元住民から売名・詐欺師など、事実に反する誹謗・中傷が加えられた。
この頃の郷土史界は地元の富裕層(大地主、大商人などいわゆる旦那衆)や知識層(教員、医師、役人など)などで構成されており、岩宿遺跡の存在する北関東も例外ではなかった。
このため、これといった学歴も財産も有しない相沢の功績をねたみ、「行商人風情が」などと蔑視し、彼の功績を否定する向きもあったという。


だが、相沢の考古学への情熱は冷めることはなく、地道な研究活動を続け、数多くの旧石器遺跡を発見した。


次第に相沢への不当な批判は消えていき、日本の旧石器時代の存在を発見した考古学者として正当な評価がようやくなされ、1967年(昭和42年)には吉川英治賞を受賞した。
岩宿の発見から18年後のことである。


晩年は、最古の旧石器を求めて夏井戸遺跡(桐生市)の発掘に精魂を傾けた。


1989年(平成元年)5月22日、桐生厚生病院にて脳内出血の再発により午前7時38分死去、桐生市薬王寺に眠る。同日、勲五等瑞宝章が国より贈られた。
11月5日、笠懸村より名誉村民第一号の称号が贈呈された。




出典: 「相沢忠洋」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



つまり、学歴がないために相沢さんは業績を無視されたのねぇ~。。。



そうなのですよ。。。 世の中には、自分が有名になりたいために、他人の業績をくすねるようなウザい人間がいるのですよ。。。 こういう人間だけにはなりたくないですよ。。。


でも、元の絵に手を加えてマリアさんのオッパイを長くしてしまうことも、人間としてやるべきことじゃない思うわぇ~。。。


 



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by denman1720 | 2019-12-01 03:51 | 歴史四方山話 | Comments(0)

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